江戸時代から庶民向けの金融があった事が古い記録に残されています。当時の大名や大商人等の信用のおける相手に、両替屋と呼ばれる金融業者が年利約18%でお金を貸していましたが、一般の庶民はこの両替屋を利用出来ませんでした。彼らはお金に困ると主に着物等の質草を預けてお金を借りる「質屋」を利用していたのです。他に「素金」と呼ばれる庶民向けの高利の金融があり、更に下層の貧しい人達は「日銭貸し」と呼ばれる金融を利用していました。この「日銭貸し」は年利に換算すると何と365%もの高利になっていたとされています。また、博打や遊郭遊びに利用されていた「烏金貸し」と言う遊興費向けの金融では、翌日返済で利息は1割、年利は驚くべき3650%だったのです。借金をして身分不相応な遊びをすると博徒(当時の暴力団)のいいカモになってしまう図式は、現代に至るまで根強く残っていると言えるでしょう。信用度の低い人ほど、金利の高い危険な借金になってしまうのも現代に通じるところでしょうか。
明治に入って盛んになった養蚕業は、事業として成立するには資金が必要でした。当時の養蚕業者はこの資金を調達する為に、村の名家からお金を借りていたそうです。これが無利息なら美談なのですが、返済期限が1年で年利は4割以上と極めて高い金利を取られていたのです。貸し手側の名家の融資資金は、その地方の資産家から金利付きで調達していたとされています。この時代から民間レベルで金融はシステム化されていたのです。こう言ったものとは別に、江戸時代から長く続いた庶民向けの金融に、無尽講(無尽講)や頼母子講(たのもしこう)と呼ばれたものがありました。本来は地域の会員の積立金で運営される互助会のようなものですが、生活費に困窮した会員が「入札」の形でこの会から借金をするのです。複数の会員から申し込みがあった場合は「入札額」の少ない会員が落札して会から借金出来るとされていました。ただし、返済額は借りたお金ではなく、当月の会員の積立金総額になります。つまり「入札額」が少ないと落札しやすいのですが、借り入れ金も少ないので結果的に金利が高くなるシステムなのです。翌月に返済する義務はあるのですが、庶民の急場しのぎにはよく利用されていたとされています。ただし、この無尽講や頼母子講は全てが健全に運営されていた訳ではありません。運営を任されていた責任者が不正を働き横領するケースも少なくなかったのです。いつの時代も、特定の人間に多額のお金を任すと不正が発生しやすいのかも知れません。
戦後になって、銀行や信用組合の一部が個人向けの少額融資を開始しますが、対象が信用度の高い顧客のみだった事から一般庶民が利用するのは難しかったと言われています。誰でも利用出来る、現代の消費者金融のルーツとも言えるのが1960年に団地の住人向けに小口融資を始めた通称「団地融資」になります。これを運営したのが破綻に至った武富士の前身だったと言われています。やがて1970年代に入ると、オイルショックの影響で生活費に困窮した人が民間の金融会社で融資を受けるケースが多くなります。主にサラリーマンの利用者が多かった事から、これらのローンはサラリーマン金融と呼ばれていたのです。この頃の「サラ金」は貸金業の法整備も整備されておらず、高利の貸し付けや脅迫まがいの取り立てが頻発していて「サラ金地獄」と言う言葉まで生まれています。キャッシングやローンと言う言葉がまだ登場していない時代です。いつの時代にも庶民向けの融資は存在していましたが、貧しい人達が高利のお金を借りて取り立てに苦しむ様は平成になっても無くなっていません。金融はまだ成熟した姿を見せていないのです。